女性のうちには相手を支配しようとする傾向があり、多くの女性はこれに気づいていない。ある男性が地域活動で役員をしていたが、いつも妻に支配されているので、家庭でうっ積したものが、役員会に持ち込まれる。とうとうこのご主人は役員会の席上、大声で怒鳴った。「この会は僕が守るから、みんな出て行け!」と。
妻が夫を支配していると、子どもに悪影響を与え、かかわりのある人々や地域社会にまで悪影響を及ぼす。よく、「夫を尻に敷く」と言われるが、尻に敷いている女性は決して幸せではない。知らず知らず、大きな損害をこうむっているのだ。夫を支配しようとすると夫は抵抗し、横暴な形で妻を支配しようとする。これが罪を犯した結果生じたのろわれた関係である。
聖書の答えは、夫婦は互いに従う、である。
夫婦は、教会でも家庭でも互いに従うことが必要である(「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」エペソ5・21)。しかし従うことのあらわれ方が、男性と女性とでは違っている。妻は自分の夫に従うことでそれをあらわし、夫は妻を愛することでそれをあらわす。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです」(エペソ5・22-23)。妻は、キリストに従うような従い方が要求されている。「夫は妻のかしらである」とは、民主主義のルールで説明すれば、夫にも妻にも一票ずつの投票権があるが、夫にはさらに議長権があるということなのだ。(議長権=採決を行って可否同数となった場合、議長自身がその議案の可決・否決を決めることをいう。)
一方、夫に要求されていることは、キリストがご自分のいのちを犠牲にされたように、妻を愛することである。妻が、自分はいのちがけの愛で愛されていると自覚できたら、従うことなど問題ではない。
夫は、(1)無条件の愛、(2)目的をもった愛、(3)思いやる愛、(4)解消しない愛、で妻を愛するのだ。
無条件の愛 キリストの愛は無条件の愛で、罪や欠点や弱点があるままで、招いてくださる。
目的をもった愛 キリストの愛は、目的をもっている。「教会をきよめて聖なるものとするため」(エペソ5・26)とあるように、私たちを、傷のない者とするために愛して下さる。
思いやる愛 「自分の妻を自分のからだのように」(エペソ5・28)、「これを養い育てます」。自分の妻を愛するとは、自分を愛することなのだ。妻を愛さない人は損をしていることになる。
解消しない愛 「妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」(エペソ5・31)。結ばれるとは、天国ののりで、のり付けするということである。問題が起っても、「離婚は絶対しない」と決心している夫婦は、必ずその問題を解決していく。
以上、柿谷正期『しあわせな夫婦になるために』(いのちのことば社)より